もう10年も前のことになります。
私が学生だった頃、音楽療法の学びの一環で、とある音楽会のスタッフをしていました。
その音楽会は、「どんな人でも楽しめる音楽会」がコンセプト。
高齢の方も、障がいのある方も、小さな子どもも、一緒に楽しめるように。
会場は明るく、通路には学生がサポートとして立ち、車椅子でも安心して参加できるように工夫されていました。
体操、歌、楽器演奏——体験もできて、鑑賞もできる、温かな雰囲気の音楽会でした。
私の担当は受付。
その親子に気がついたのは、ロビーに出てきた時のことでした。
小さな男の子と、お母さん。
どうやら男の子が客席で泣き出してしまい、しばらくそのまま座っていたものの、周囲の視線に耐えきれず、親子でロビーへ出てきたようでした。
「帰るよ!」
「いやだ!帰りたくない!」
お母さんの声は少し強くて、男の子は泣きながら「帰りたくない」と言っていました。
ああ、これは一度離れて、お互いに落ち着いたほうがよさそうだなと思いました。
そして何より、男の子は“まだここにいたい”って、ちゃんと気持ちを出している。
だったら、楽しい思い出として終わってほしいなと思ったんです。
私は男の子に声をかけました。
「楽器で遊んでみない?これ、音が鳴るんだよ。向こうにもっとたくさんあるんだ」
手に持っていた楽器を見せながら誘うと、男の子は少しずつ興味を示してくれました。
ロビーの楽器コーナーでしばらく一緒に遊んでいると、男の子の泣き声は落ち着き、表情もやわらいでいきました。
その間に私は、お母さんと少しお話をしました。
「こんなに泣かれると、またか…って思ってしまうんです」
「頑張って来たのに、うまくいかないと落ち込んじゃって…」
「誰でも楽しめるって聞いたから来たのに、会場でみんなの視線が冷たくて、すごく惨めな気持ちになってしまって……」
お母さんの言葉は、抑えきれない思いがこぼれ出るようでした。
私はうなずきながら、ただ話を聞いていました。
「今日は途中まででも来られて、すごいと思いますよ」
「さっきより、息子さん落ち着いてきましたね」
そんなふうに声をかけているうちに、お母さんの表情も少しずつほぐれていきました。
しばらくして、男の子が自分の言葉で教えてくれました。
「ちょっと、暗くなったのがイヤだったの」
ああ、ちゃんと理由があったんだな、と私は思いました。
そしてそれを伝えるとき、私はこう言いました。
「ロビーに出て、気分が変わったみたいです。落ち着いたら、何が嫌だったのか自分で言えましたよ」
「お母さん、ナイス判断でしたね!」
(本当は、“もう帰るしかない”と思っていたお母さんの決断を、そっと上書きしたかったのかもしれません。)
さらに私は、心から思ったことも伝えました。
「いろいろ調べて来られたんですよね。お出かけって本当に大変なのに…
でも、ちゃんといろんな場所に連れてきてあげていて、お母さん、本当にすごいです」
そして、私は次のプログラムのことをそっと伝えてみました。
「もうすぐ、ステージでみんなで楽器を鳴らす時間なんだけど、やってみる?」
男の子は目を輝かせて「やる!」と答えてくれました。
一緒にお母さんのところへ行って、私はこう伝えました。
「ステージで楽器やりたいって言ってくれてます。私も一緒に行くので、よかったらもう一度会場に行ってみませんか?」
タイミングよく、プログラムの案内が入り、私たちはそのまま会場へ。
ちょうど「楽器をやりたいお友達はステージへどうぞ!」という声がかかり、男の子は堂々とステージへ。
自己紹介もしっかりできて、楽器も楽しそうに鳴らしていました。
「信じられない…息子がステージに上がるなんて!」
「こういうこと、今までなかったんです」
お母さんのその言葉を聞いて、私の胸にもじわっとあたたかいものが広がりました。
笑顔で、誇らしげに帰っていく親子の後ろ姿。
ああ、引きとめてよかった。
話を聞けてよかった。
きっと今日は「楽しい音楽会だったね」って言って帰れる。
帰ってからもきっと、パパに笑顔で話せる。
そんな予感がしました。
そして今、私は母親になりました。
あのときのお母さんの言葉や表情が、今になって胸に刺さるように感じます。
子どもの声に耳を傾けたいけれど、それが難しいときってある。
余裕がなくなったとき、自分を責めてしまうこともある。
でも、そんなときに誰かがそっと寄り添ってくれたら、
ほんの少し前を向く力が湧いてくることがあるのだと、今は思えます。
あのときの私の声かけが、お母さんの中で、ほんのひとつの“余裕”になっていたなら。
私にとっても、あれは大切な「忘れたくない一日」になっています。